世界史の窓 を参照
https://www.y-history.net/appendix/wh1501-119.html#wh1702-105
まとめ
ソ連からの独立と親ロシア派・親西欧派の対立1989年、東欧革命の影響でウクライナでも民主化が進み、1990年3月の選挙で民主化勢力が議席を獲得し、ウクライナ共産党の権威は失墜しました。1990年7月16日にはウクライナ共和国の主権宣言が行われ、1991年8月24日には独立宣言、国名も「ウクライナ」に変更されました。同年12月の国民投票では90%以上の圧倒的多数が独立を支持し、独立を達成しました。新生ウクライナ大統領には、改革派に転じたクラフチュークが選出されました。
独立後、ウクライナは黒海に面し、EUに隣接する戦略的に重要な位置にあるため、ロシアはウクライナとの関係を重視しました。国内では、西ヨーロッパとの連携を重視する親西欧派と、ロシアとの一体感を強く持つ親ロシア派の対立が深まり、特にロシア系住民の多いクリミア半島とウクライナ東部でこの問題が顕在化しました。
1994年12月には、ウクライナがソ連の核兵器を放棄する代わりに、アメリカ・イギリス・ロシアがウクライナの安全を保障する「ブダペスト覚書」が調印されました。これにより、ウクライナは核兵器をロシアに移管しましたが、安全保障の保証と引き換えにクリミア半島の領有が守られることとなりました。
オレンジ革命とユーロマイダン革命
2000年代に入り、プーチン大統領が強硬な姿勢をみせると、クリミア半島とウクライナ東部のロシア系住民によるウクライナからの分離運動を支援する動きが強まりました。こうした動きの中で、2003年には親ロシア派のヤヌコーヴィチが首相となり、腐敗が横行し国民の不満が高まります。
2004年の大統領選挙では、親ロシア派のヤヌコーヴィチと親西欧派のユシチェンコが対決。選挙での不正を訴えた野党側の大規模なデモや抗議活動の結果、再選挙が行われ、ユシチェンコが勝利しました。この一連の民主化運動は、野党のシンボルカラーにちなんで「オレンジ革命」と呼ばれました。
しかし、その後も政情は不安定で、2010年の大統領選挙ではヤヌコーヴィチが復活します。2013年、ヤヌコーヴィチ政権がEUとの政治・貿易協定の調印を拒否したことに反発し、反政府暴動が勃発しました。この運動は「ユーロマイダン革命」と呼ばれ、2014年2月にはヤヌコーヴィチ大統領がロシアに亡命し、政権が崩壊しました。
クリミア併合とウクライナ東部紛争
ヤヌコーヴィチ政権崩壊後、プーチン大統領は、クリミア半島のロシア編入を望む住民を保護するという名目で軍を派遣し、住民投票を強行してクリミアを併合しました。また、ウクライナ東部のルガンスク州とドネツク州でもロシア系住民による分離運動が激化し、ウクライナ政府軍との間で激しい内戦に突入しました。これは国際的には「ウクライナ東部紛争」と呼ばれ、事実上はロシアとウクライナの戦争と見なされています。
この紛争解決のため、2014年9月にはドイツとフランスの仲介でミンスク合意が成立しましたが、停戦は守られず戦闘が続きました。2018年には黒海でロシア艦がウクライナ艦を砲撃・拿捕する事件も発生し、緊張が高まりました。
2019年には、コメディアン出身のゼレンスキーが大統領に当選し、東部紛争の解決を公約に掲げ、2020年7月には完全停戦の合意に至りました。しかし、2014年以来、これまでに1万4千人もの犠牲者を出しており、停戦の行方は不透明なままです。
主な経歴
レオニード・クラフチュクは、1934年にウクライナ・ソビエト社会主義共和国で生まれたウクライナ初代大統領です。
2022年5月10日に88歳で死去しました。
1990年にウクライナ最高会議議長に選出されました。
1991年、ソ連共産党を離党し、ウクライナの独立を宣言しました。同年12月の大統領選挙で初代大統領に選出されました。
ボリス・エリツィン、スタニスラフ・シュシケビッチと共に、ソ連を解体し独立国家共同体(CIS)を創設するベロヴェーシ合意に署名しました。
大統領在任中、ウクライナ化とロシア離れを推進しましたが、経済危機により支持を失い、1994年の大統領選で敗北しました。
その後、2006年まで国会議員を務めました。
詳細については、レオニード・クラフチュクのWikipediaページをご覧ください。 ソース
■レオニード・クチマ
ウクライナの第2代大統領であるレオニード・クチマの経歴をまとめました。
主な経歴
- 1938年にソ連のウクライナ共和国に生まれ、ロケット製造工場で総工場長まで務めました。
- 1992年に首相に就任しましたが、経済危機を理由に1年で辞任しました。
- 1994年の大統領選挙で当選し、ウクライナの第2代大統領に就任しました。1999年にも再選を果たしています。
- 彼の外交政策は、EUやNATOへの加盟を模索しつつ、ロシアとの関係も維持するバランスの取れたものでした。
- しかし、在任中にはジャーナリスト殺害疑惑や政治腐敗の批判が高まり、国内政治が混乱しました。
- 2004年の大統領選挙では不正疑惑が持ち上がり、オレンジ革命につながりました。
- 現在は政界を引退しています。
詳細については、レオニード・クチマのWikipediaページをご覧ください。
■ヴィクトル・ユシチェンコ
ウクライナ第3代大統領であるヴィクトル・ユシチェンコの経歴をまとめました。
主な経歴
- 1954年に生まれ、銀行家から政治家へと転身しました。
- ウクライナ国立銀行の理事長を経て、1999年に首相に就任しました。
- 2004年の大統領選挙中にダイオキシン中毒の被害に遭いながらも、選挙の不正に対する「オレンジ革命」を経て当選し、第3代大統領となりました。
- 大統領在任中は、政権内の対立により求心力を失い、2010年の大統領選挙では再選を果たせませんでした。
- 民族主義的な側面を持ち、ホロドモールやホロコーストを強く批判し、ステパン・バンデラにウクライナ英雄の称号を授与しました。
詳細については、ヴィクトル・ユシチェンコのWikipediaページをご覧ください。
■ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ
ウクライナ第4代大統領であるヴィクトル・ヤヌコーヴィチの経歴をまとめました。
主な経歴
- 1950年にソ連のウクライナ共和国に生まれ、若い頃に強盗事件で有罪判決を受けた経歴があります(後に無効)。
- 政治家としては、ドネツィク州知事を経て、2002年と2006年に首相を務めました。
- 2010年の大統領選挙で当選し、第4代大統領に就任しました。在任中はロシアとの関係強化を重視しました。
- 2013年、EUとの協定を保留したことがきっかけで大規模な反政府デモが発生し、2014年にウクライナを脱出してロシアに亡命しました。
- その後、議会によって大統領を解任され、公金横領や国家反逆罪で欠席裁判にて禁錮13年の有罪判決を受けました。
- 彼の豪邸が公開され、財産は国有化されました。
詳細については、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチのWikipediaページをご覧ください。
■オレクサンドル・トゥルチノフ
ウクライナの政治家オレクサンドル・トゥルチノフの経歴をまとめました。
主な経歴
- ウクライナ保安庁長官、第一副首相、首相代行、大統領代行、最高議会議長など、多くの要職を歴任しました。
- 実業家から政治家となり、レオニード・クチマ首相の経済顧問を務めた後、ユーリヤ・ティモシェンコと政党「全ウクライナ連合『祖国』」を設立しました。
- 2014年のユーロマイダン革命後、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領が解任された際には、最高議会議長と大統領代行を務めました。
- 同性婚に対しては保守的な姿勢を示し、ヤヌコーヴィチ政権下で制定された公用語法を廃止したことで反発を招きました。
詳細については、オレクサンドル・トゥルチノフのWikipediaページをご覧ください。 ソース